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ミュラー/シューベルト作曲「冬の旅」(1)(バリトン独唱:今田陽次)(図書だより)

皆さんは、クラシック音楽はお好きですか?

シューベルトは、31歳の若さで早逝するまでに700曲に近い歌曲を作曲しました。

「シューベルトといえば有名な作曲家だし、さぞやすごい人だったんだろうなー。」と思われる方も多いと思いますが、シューベルトは格式ある宮廷や教会の音楽家ではなく、今でいうフリーランスの立場で活動をしながら名をなした最初の作曲家なのです。

フランツ・シューベルト
(1797~1828 Franz Peter Schubert)

「バロック」と呼ばれた時代、ヨーロッパでは、宮廷や教会が絶対的権力を持ち、「神が人間に真理を示す」と考えられて、音楽も宗教と深く結びついていました。やがて「啓蒙思想」によって人間の内面や感情が尊重されるようになると、「自然の生み出したもののなかに神が根づく」と考られるようになり、権力者や聖職者への批判が高まり、教会歌曲による支配は崩れていきました。

シューベルトはこのような時代にウィーンで生まれました。

しかし、この頃の教会の権力はまだまだ強く、フランス革命とナポレオン戦争によって混乱したヨーロッパでは社会の秩序を昔に戻そうとする動き(=ウィーン体制)によって自由主義(リベラリズム)や愛国主義(ナシヨナリズム)といった考えは禁じられるようになりました。

<アウステルリッツの戦い>
フランソワ・ジェラール
(1770~1837 François Pascal Simon, Baron Gérard)
~中央がナポレオンです~

この頃の文化を「ビーダーマイヤー」といい、多くの若者達が、言いたいことの言えない社会を窮屈に感じていました。

<思想家クラブ(1819)>
出典/シューベルトの「冬の旅」 (ARTES)
イアン・ボストリッジ(著)

皆さんもご存じのシューベルトの「鱒」は、この頃に作られた有節歌曲で、シューベルトは同じ旋律でわずかな違いのある5つの版を残しました。

詩は、ドイツの詩人でシューバルト(1739~1791 Christian Friedrich Daniel Schubart)の体験によるもので、作品に出てくる「澄んだ小川」は作者が自由に過ごしたウルムの町で、「鱒」はシューバルト自身の事です。

「鱒」はこちら

シューバルトはDeutsche Chronikという雑誌の主な執筆者として、ヨーロッパだけでなくアメリカにまでその名が知られていが、自由主義を賛美し、権力者や聖職者を厳しく批判したために、ヴェルテンベルク領主オイゲン公Karl Eugen(1728-1793)の怒りを買い、その力の及ばないウルムに逃げていた。そこへ1777年1月22日、ショルPhilipp Fridrich Schoolという高官がやってきて、「テュービンゲン出のグリメン教授がDeutsche Chronikの著者に会いたいと言うので、一緒にブラウボイレンに行こう」と提案した。ブラウボイレンがオイゲン公の領地であるにもかかわらず、シューバルトは、ついにその提案に応じてしまい、翌日当地に着いて間もなく、ショルの家に入る時に逮捕された。

出典/ヴィルヘルム・ミュラーの生涯と作品―「冬の旅」を中心に(東北大学出版会)
渡辺美奈子

シューベルトにもこれと同じような経験があります。

1808年、オーストリア帝国王立寄宿制神学校宮廷合唱団に合格したシューベルトは、ウィーンアカデミー・ギムナジウムに入学し、そこでヨハン・ゼンと5年間の生活を共にしましたが、ゼンは自由思想をもつ人物ということで学籍を失い、投獄の後にウィーンから追放されました。「ギムナジウム」というのは、大学へ進学するための前段階の学校のことで、中高一貫校のような学校です。

シューベルトはこの時代を「暗鬱な時代」と捉え、「芸術こそがこの暗い世をよりよい世界に導き、天の至福へと道を開いてくれる」と考え、2つの歌曲「楽に寄す」「民衆への嘆き」でその心情を表しました。

ドイツでは啓蒙思想によって市民社会に文化が広まり、それにつれて教会的な音楽は衰退し、民謡的な音楽が好まれるようになりました。演奏の場所も、それまでの宮廷から、サロンのように規模の小さいピアノ演奏にかわり、そこでは音楽家や画家、詩人といった若い芸術家が集まることで、新たな芸術作品が生まれました。

シューベルトも週に一度、ウィーンで「シューべルティアーゼ」と呼ばれる演奏会を行いました。
1825年に友人フォーゲルとその演奏会で行った即興演奏によって、歌と伴奏がその枠を超えて一体化することに驚き、これが近代ドイツ歌曲(リート)のきっかけとなりました。

ドイツの音楽が詩と特別密接な関係を結んだのは18世紀半ばからのことである。ゲーテやシラーらの抒情詩と取り組んだ作曲家たちはその芸術性を尊重する音楽性の高い歌曲を生み出して、それまでの誰でも歌える有節形式の歌曲(章節ごとに1番、2番を同じメロディーで繰り返す)とは異なり、演奏に歌手の力量が必要とされる「ドイツ歌曲(Lied(リート))」と呼ばれる音楽のジャンルが生まれた。多くの場合詩人と作曲家は面識がなかったが、詩と歌曲の作曲には深い交流と協働的な力が働いている。
この時代の詩が作曲に適し、音楽が詩的であったからであるとも言われるが、シューベルトとシューマン(1810~56)の出現によって、ドイツ歌曲はさらにその名声を高めることとなった。

出典/ヴィルヘルム・ミュラー読本(未知谷)
松下たえ子

ドイツ歌曲の始まりを厳密にいうと、中世にまでさかのぼりますが、シューベルトがドイツ歌曲の代表的作曲家といわれる背景には、シューベルトは自分の作品を、それまでの神に向けた音楽ではなく、人間すなわち“聴衆”に向けた音楽にしたことと、曲に「長・短調の特徴、ことにⅢ度、近親調関係による転調」を入れることで、ドイツ歌曲の表現力がそれまで以上に高められたことにあります。

シューベルトの作ったミサ曲は、伝統的な形をとりながらも、それまでのミサ曲で必ず冒頭に使われていた「カトリック教会に専念させ、死者の復活を信じることを示す信仰宣言」である「クレド(Credo)」の文言は使いませんでした。

 長調と短調とがそれぞれ異なった感情表現をすることは、すでにバロック時代に一般化していたが、古典派に至って重要な役割を演ずるようになった。それがさらにロマン派の時代になると、この時代の芸術の一般的趨勢(すうせい)が感情表現を重んじだがゆえに、その音楽的表現力も繊細となり、多様化され、一層重要な役割を演ずるようになった。
ここで注目すべきは、ロマン主義の起こった時期が詩芸術と音楽との間にずれのあることである。詩や文学ではすでに十八世紀に盛んであったロマン主義は、音楽の分野ではようやく十九世紀も半ば近くになって浸透した。シューベルトは古典期によって絶頂に達した音楽の感情的表現を、ロマン派音楽の先駆となるような仕方でその歌曲に浸透させたのである。

出典/ドイツ歌曲の歴史(音楽之友社)
渡辺 護

※趨勢(すうせい):世の中の流れ

「冬の旅」はシューベルトによる初のコンセプト・アルバムです。ヴィヘルム・ミュラーとシューベルトはロマン派の時代を、孤独と絶望を抱えながらどう生きようとしたのか、そして彼らが求めた自由とは・・・。次回図書だよりでは、「冬の旅」を、ドイツロマン派の代表的画家フリードリヒの絵を交えてご紹介します。