「桃の節句」と「端午の節句」(図書だより)

日本には子どもの成長を祝う「桃の節句」や「端午の節句」といった行事があります。「節(せち)」というのは季節のことで、そもそもは三月三日や五月五日のように月の数と日の数がおなじ「重日(じゅうにち)」を節日として祝う中国渡来の五節供(=五節句)に由来し、「雛祭り」は上巳(じょうし/じょうみ)の宴が宮中行事の曲水の宴(きょくすいのえん)につながり民間へ普及したものであろうといわれています。五節句には陰暦正月七日の人日(じんじつ)、三月三日の上巳、五月五日の端午、七月七日の七夕、九月九日の重陽(ちょうよう)があります。

「公事十二ヵ月絵巻」はこちら(国立国会図書館デジタルコレクション)


【曲水宴】
(国立国会図書館デジタルコレクション)
上流から流れる酒杯が自分の前にくる前に
詩歌を作り杯のお酒を飲みます

【乞巧奠(きこうでん/きっこうでん)】
(国立国会図書館デジタルコレクション)
七夕。牽牛(けんぎゅう)と織女(しゅくじょ)の星を祭る行事
裁縫など種々の手芸が巧みになるように乞い願うことからこの名がつきました


【重陽(ちょうよう)の節句】
(国立国会図書館デジタルコレクション)
9月9日に行われる観菊の宴で「菊の節句」ともいいます

源氏物語の「須磨の巻」には弥生上巳の祓(はらえ)の日、「舟にことごとしき人形(ひとがた)のせて流すを見たまふにも、よそへられて、知らざりし大海(おほうみ)の原に流れきてひとかたにやはものは悲しき」とあり、源氏が船に人形(ひとがた)をのせて流す祓いの行事を都から流離(りゅうり)した自分と重ねあわせる場面があります。

ヒナ人形というのは、もとは生児の厄難を免れさせるために、布地などで人形を作り、それを生児の傍らにともに寝させて、厄難をそれに移し、その児の誕生日とか、あるいは重要な節分などに、それを山や川に送って、災厄を払ったのがもとだといわれ、その時作った人形(ひとがた)をホウコ(這子)とか天児(アマガツ)といった。

「月ごとの祭り」
著:橋浦泰雄
ほるぷ出版

~広島・山口の境にある一級河川「小瀬川(おぜがわ)」の流し雛~
この流域では和紙などの製紙産業が盛んでした

小瀬川の歴史 (国土交通省ホームページ)

「端午」は端(はじめ)の午の日のことで、「端午の節句」はあやめや菖蒲(しょうぶ)といった薬草を飾って邪気を払うというこれも中国伝来の風習が中世以降武家行事であった「騎射(うまゆみ)」の流れを汲むようになったといわれています。騎射とは馬に乗ったままで弓を射ることで、ショウブは尚武との語呂あわせともかさなって立派な武将になることを願う男子の行事となりました。



【守貞漫稿・巻27】
(国立国会図書館デジタルコレクション)

騎射練武(きしゃれんぶ)の風は、のちに端午を男の節供とし、兜(かぶと)人形・菖蒲兜
の飾り物は、鎌倉・室町期から見られる。近世では男児のある家では、屋外に幟や吹き流しを立て、甲冑や武者人形などを飾って、その子の将来を予祝した。『守貞漫稿(もりさだまんこう)・二七』にその習慣が詳しい。

「角川古語大辞典」
角川書店

守貞漫稿・巻27はこちら(国立国会図書館デジタルコレクション)

旧暦の5月は和風月名を「さつき」といい、「早苗(さなえ)を植える月」のことで古代の頃より「田植え」は「農耕神である田の神を迎える大切な神事」とされており、これにかかる前にはきびしい物忌(ものいみ)の期間があったようです。広辞苑によると田植えをする女性は早乙女(さおとめ)とよばれ、「サは接頭辞で神稲の意」とありますから、女性達が大役を務めていたことが推測されます。そしてカミゴトはより多く子どもを介して現れると考えられていたようです。暦がまだ不完全だったころ、人々は田植えや収穫の時期を自然の中に見いだしていました。もともと熱帯原産の稲を温帯の日本で生育して1年で収穫するためにはそれぞれの作業の適時を正確にとらえることが重要でした。

「和風月名」はこちら(国立国会図書館「日本の暦」)

オタマジャクシの出現は、水ぬるむ春の訪れを告げるものだった。ホタルは夏の風物であるが、同時にその夏はカやハエなどの害虫の活動の最盛期でもあった。ヘビやカエルは冬眠動物の一種であり、カエルのにぎやかに鳴く声は初夏を知らせ、山歩きに際しては毒蛇にかまれる注意が必要になった。セミの鳴き声は盛夏を、種類によってはやがて秋のしのびよることを告知する。そして、かしましいほどの各種の虫の声が秋の夜長をみたすほどであった。

「暦の百科事典」
(株)新人物往来社

民俗学者の和歌森太郎は「重日」の節句はあらたに生まれたものではなく、日本で古来から慣行されてきた年中行事と習合したもので、その多くが農事暦と深いかかわりがあったことを例証します。

固有な行事は重日というようないわば整った日ではなく、別の日に営んでいたとみるのである。しかしそれは何らの基準なく各自年々区々に散漫に日を選んで行ったのではなく、やはり素朴な日本人において或る基準をもって特定の日を選んだのである。
それは各月の十五日とか一日、七、八日や二十二、三、四が多かった。旧暦のそれらの日は月の形が満つる望(もち)の日、またふくらみ出すツキタチ(ツイタチ)の日、上弦や下弦の日である。すべて月の盈ちかけ(みちかけ)を見て印象の強い日を選んだようである。文字による暦が地方に購入され、よりどころとされるに至ったのは極めて新しい代のことであり、それまで常民は月を見つめて日(か)(コ)を読んできた。コヨミとは本来そういうものであった。

「新版 日本民俗學」
著:和歌森太郎
清水弘文堂

~4月初め、本校の枝垂れ桜も満開です~

和歌森太郎は、桜の花の散り具合に疫神の活動を見るという説に対して、花には花の霊があり、これを田の神に付与する祭りであると説いている。(『花と日本人』)。つまりは豊年祈願祭の一つだというのである。それは山の神が田の神になるという信仰にもとづくもので、山の神に桜の花を手向けて、田の神に変身させるのだというのである。

「祭礼と風流」
著:西角井正大

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